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明治35年京都三条河原町に誕生した弊社が、明治、大正、昭和そして平成と、時代を越えて着実な発展を遂げ、今日の姿があるのもひとえに皆様のご支援の賜物です。
長い歴史の守るべきことはしっかりと受け継ぎ、変えるべきものは思い切って改めると言う柔軟な姿勢で鋭意努力してまいります。
大阪市西区南堀江上通1丁目にあった
往時の大阪本社(大正時代)
昭和初期に発行された
ハツタのカタログ
←二重瓶消火器
明治27年に銅製小型4升入が発明されて以来、中型8升入肩掛け式、大型1斗2升入背負い式が製作され、大型は軍隊の陣営具として納入。昭和10年には、黄銅製(小型)も製作。戦後は鉄製になる。昭和36年の消火器規格改正まで当社主要器種であった。
創立当時から使用されていたダブルリング(双輪)の商標は明治40年商標登録された。当時製作していた消火器が二重瓶式であったことから、それを図案化して輪を二重にしたものです。輪は円満を意味し、それを二つ合わせることにより和を表しています。創立以来社会に奉仕する弊社のシンボルマークとなっております。
ハツタ起業の原点は「二重瓶消火器」の考案にあります。明治は富国強兵の時代、列強の諸外国と肩を並べるべく、西欧の文化や文明が盛んに取り入れられ、あらゆる事業は、常に国家的、社会的視点から捉えられていました。工学博士だった高木文平も、富国の為にその能力を如何なく発揮しました。その業績は、社会的レベルにおいても高く、輝かしいものといえます。
主な足跡としては宇治川水力発電所の設計施工を手掛けたことや、我が国で最初の市内電車を走らせた京都電気鉄道株式会社の創設があります。そういった事業を行いながら、京都商工会議所の初代会頭として、京都の産業発展に大きな貢献をしております。
彼は、単に技術者として優秀なばかりでなく、一方では京都に対する深い愛情を有した人でもあり、京都市内のいたるところにある由緒ある社寺仏閣が火災により灰と帰することにたまらない憤りを感じていました。
それがひいては日本文化の喪失であり、国家的損失であると考え、その想いが胸中熱く燃え上がり、当時としては画期的な日本で最初の「二重瓶消火器」を考案することとなりました。やがて彼は、初代社長となった同郷の友人である初田利兵衛に製造・販売の権利を譲渡し、二重瓶消火器株式会社が誕生することとなります。
高木 文平
天保14年3月11日
丹波北桑田郡神吉村に生まれる。23歳で代官職を相続。明治3年私学校を興し、近郷の青少年を集め教育。明治10年パリ万博に美術工芸品を出品。明治21年渡米し水力発電の研究を遂げ、京都に、日本で初めての水力発電所を完成。明治27年京都電気鉄道を創設、社長となる。同年京都商工会議所の初代会頭となる。
二重瓶消火器の考案者高木文平の有意義な事業をさらに拡大発展させるために、京都市河原町三条において「二重瓶消火器株式会社」を設立しました。初代社長初田利兵衛をはじめ創立メンバーは、高木文平と同郷(京都府北桑田郡)の人が多く、後に京都市長を勤めた浅山冨乃助など有識者が相集いました。「高木消火器店」の特許権および営業権等の譲渡を受けた、明治35年12月1日のことでした。
「二重瓶消火器株式会社」は当時としては先進的な株式会社のカタチをとり取扱商品同様社会的に意義ある企業として注目を集めました。当時の営業報告書によれば、初年度の販売台数は1269台でした。
そして二年後、本社を京都から商都・大阪に移転し、更に社業の発展拡大を目指すこととなりました。以後、昭和19年に社名を「初田工業株式会社」と改め、戦後の昭和22年に「株式会社初田製作所」となります。
初田 利平衛
天保13年、丹波北桑田郡山國村に生まれる。
代々山林業を営み京都嵯峨にて、製材業を経営。山國村村長をつとめ、村の発展に寄与。明治35年二重瓶消火器株式会社を創立。初代社長に就任。経営を、三男・勝治に委ね、当人は後見役に終始することとなる。
京都商工会議所初代会頭高木文平が二重瓶消火器を考案
生産ラインにコンベヤーシステムを採用業界トップの生産体制を確立
シームレックス(胴体に継ぎ目のない)消火器の開発。月産8万台の量産体制確立
カセット式消火器開発
フランジ式消火器を開発
ステンレス消火器を開発
エコマーク認定消火器を発売
(消火薬剤を再生利用)
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